昭和41年12月30日 朝の御理解
不測の事を感じ油断大敵と言う言葉が御座います。油断大敵と又は勝って兜の緒を締めよと。勝って兜の愈々緒を締めていけと言うので御座います。信心にもその事が大事だとこう思いますね。有難く頂いて帰ればおかげは、船にも車にも積めぬほどの神徳があると仰る。皆さんが朝の御祈念にお参りになって御祈念をなさる。そして御教えを頂かれる、御理解を頂かれる。それを有難く頂いて帰れば、おかげは船にも車にも積めぬほどの神徳があると仰る。
おかげを頂くと言う事は、そういう神徳があると言う、そのいわゆるおかげでなからなければならん。所がお互いの信心を思うてみますと、確かにお参りをして来る時には、生き生きとして向こうて来た。御祈念も有難くさせて貰うた。御理解も確かに成程なるほどと合点して頂いた。けれどももうほんなら、御理解が終わるともうここの敷居をまたぐ前に、もうそのストーブのそばに行った途端に、もう俗に帰ってしまっておる。
いわゆる俗と言うのは信心のない者に、いわば今有難かった私とは似ても似つかない私になっておると言った様な事はないだろうか。ましてここを一歩外へ出たら尚更の事。家に帰ってみた自分はもう有難さも何もないと。まぁ不平不足なら不平不足が朝早う帰って例えば帰る。まぁだ家内が寝とったと。子供はまぁだ寝とる。まぁだ表を開けてもおらん。お掃除もしちゃない。ご飯も出来とらん。
例えばですねこら私が毎朝、朝の御祈念にそのお参りさせて頂いておった時分の事を、今日は思い出させて頂いたんですけれども。確かにそういう勢いでですね、お参りもさせて貰い、有難いと思って帰っても来るのだけれども、さぁ帰ってからまぁだ、戸も開けてないとその、あんまり良い感じがしない。戸ども開けてある。はぁお帰りなさいと言うて、朝の御祈念の帰った時に、家内が迎えてくれると何だけれども、でないともうそこには、不足がましいものが心の中に確かにあったと思う。
これはどういう風な所からそう言う事になってくるのだろうかと。有難いと思う本当に有難いと思う。本当に今日の御理解のそこん所をどういう風に、皆さんは頂かれただろうかと。私はかく頂いておるけれども、今日の御理解のあそこの頂き所は、あそこでしたねと例えて言うならば、ここで皆さんが御理解を頂いて、ほんならストーブのそばに寄ったらもう世間話なんか勿体のうしてされませんですね。
今日の御理解のあそこでしたもんね、頂き所はと例えばそういう、例えばその信心にその燃えておるというか、油断のない信心をさせて頂いておる時には、必ずそのそばに人が集まる。いわゆるその自分のそうした生き生きした信心が人にも伝わっていく。結局やれやれ、やれやれと言うほどしの言葉ではなくても、まぁ御祈念を済んだと言う様な、その気持ちがそう言う事に、なってくるのじゃなかろうかと思う。
その生き生きした喜びをこれから、家庭の生活の上に様々な関係の上にも、その信心の有難さというものを持ち込んでいけれる為に、一つお互いが油断無しに信心させてもらわにゃいけん。油断をするそこから隙間風が入ってくる。それが真風になってくる場合がある油断しちゃならん。そこでそのこら何時も心を張る弓のようにしとかねばならんと言う事ではない心掛けなんです。それがもうそう自分のものになってしまうのです。
柔道のまぁ心得のある人。特にあのまぁ段でも取って、まぁ言うならば上手名人と言われるようになってくるとですね。もう決してその寒いからと言うて、この腕ぶつころでもしてから、道を歩く様な事はしないと言う事です。何時敵が襲うてくるやら分からん。それを腕ぶつころでもして、もう後ろからばっとこう羽交い絞めにでもされたら、それでお終いだからなんですよね。
それが柔道の稽古なんかしたことが無い者は、いわゆる腕ぶくろでんするとは、当たり前のごと思うとる。と言うてその柔道をする人がですたいね。腕ぶつころはせんで何時も手を出しておると言う事は、それはほんな柔道しよるけんで、何時も手を出しとかんなんて、その事に困ったと言う様な事は無かろうとこう思う。それが身に付いてるのである。剣道の達人と言われるような人達はですね。道を歩いても曲がり角なんかは決してこう、近道、早回りをしないと言う。
必ず外側のほうからしか回らないと言われております。こう近回り早回りをしよるとですね。出会い頭に敵がぱっと打ち込んできたら困るからなんですよ。ですから外側のほうを回れば向こうの角に、誰がおると言う様な事が分かる。そういう心掛けがもう何時の間にか、身に付いて来ると言う事です。信心をさせて頂いておってもそうです。これは東京のある教会の、秦先生か誰かではなかったかと思いますけれど、なんか記念祭が大変盛大に行われた。
ほんなら御理解になってお広前へ出てきた所が、もう先生がちゃっと御結界に座ってござった。先生にその信者さんが本当に今日はもう、盛大な記念祭を奉仕されましてから、お目出度う御座いますと、先生もご安心が出来ましたろうと。言うなら肩の荷を降ろされた事で御座いましょうと言うて、まぁそのご挨拶をした時に、先生が仰ったそうですね。私はもう、次の記念祭の事を考えとるち言わっしゃった。もう隙が無い。記念祭を終わった時にはです、もう次の記念祭の事を考えておるとこう言われた。
本当に信者が感じ入ったと言う話がありますね。はぁやれやれ記念祭も済んだ。その、やれやれがいかんのです。それが油断。いわゆる盛大な御大祭が奉仕されれば、奉仕されたほどにです。いわゆる勝って兜の緒を締めていかなければならん。油断は禁物油断はもう大敵なのだ。これは私共の信心生活させて頂く者の上にも、それを私は頂かなければならんとこう思う。私はまぁ神様の目からご覧になりゃ、もう本当に隙だらけで御座いましょうと思います。
けども私は私なりにそこん所を感じておりますから、ここで修行される方達によく申します。私は確かにやれやれと言う気分が起こらんじゃないですね。一日なら一日の御用を終わらせて頂きまして、ここを下らせて貰いますとです。心がゆっくりなる。羽織をとり袴を取らせて貰いますと、もう本当に言うなら肩の荷を降ろしたような、何かそういう安らぎのようなものを感じる。
そういう時にでも、私はもう言うんです。私に隙があったら何時でも、どこからでも一つ打ち込んでご覧なさいと。形の上においてはもう羽織も脱いでおれば袴も脱いでる。まぁ言うならやれやれと足投げ出して、コタツにでも入っておる。それでもです私の心の中からその何時誰から打ち込んでこられても、いわば身体を交わすと言うか、それを受け止めれるだけのものを、私は心の中に何時も感じておる。ですから難しい事じゃないですね。それはもうどう言う様な事かと。
ほんならその柔道やら、剣道やらなさる方が、何時もかつも柔道着を着とかねばならんと言う事じゃないと。いつも剣道のあの防具を着けて、竹刀を持っとかねばならんと言う事じゃない。それが身に付いてしまうと言う事。皆さんでもそうです。そこん所を皆さんは、ここには信心の稽古に通うて来る所ですから、そこん所を私は大事に持って帰らなければいけないと。
御理解を頂いて御祈念を頂いて、何にも感じることが無かった。有難くもならなかった。なるほどとも思わなかった。ほんならも一遍私は誰彼が帰っても、帰らずに残ってでも御祈念でもさせて頂いてでも。もう一遍テープで御理解頂いてでも、それを頂いて帰ると言う私は意欲が欲しいと思うですね。そしてはぁこれだと。今日はこれだというものをです。私は心の中に持っておる時にです。それは例えストーブのそばへ行っても、火鉢のそばにあってもここの敷居をまたいでも外へ出てもです。
それがこれから外れないと言うおかげ。昨日久保山の奥さんが見えて、先生この生き生きした信心、生き生きした信心と言う事を言われるんですけれども。生き生きした信心とはどう言う様な事でしょうかと。また椛目ではどなた達がその生き生きした信心を頂いておられるでしょうかと言うてお伺いされた。さぁそうですなぁ生き生きした信心とは、まぁ何と言うても私共が一番それを感じた事は。
ご本部参拝させて頂きますと、あの三代金光様のおそばに寄らせて頂く時でしたね。黙ってお座りになっておられるんですもんね。それでも金光様のお姿が、チラッと見えただけでです。例えばあの大祭なんかの時には、大体みんなが眠たいですもんね。汽車の中で眠っとらんですから。もう大祭の始まる頃から眠くなる。それは私だけでは無かろうごたる。誰でも眠かろうごたる顔しちゃる。大事なお祭り時分なぐーぐー寝てる人がある。それでもです。
あのこう幕の向こう側から、金光様がチラッと見えられただけで、もう何か生き生きした血が、身体全身を駆け巡るような感じが致しよりましたろうが。バチバチバチバチとそれこそ、その拍手の波が打つようにです。もう金光様の姿が見えたと同時に、皆んなが拍手して拝まして頂いたもんです。そしてもう今日のご本部参拝は、もうこれだけで十分と言う様な喜びを頂いて帰ったもんです。そういう不思議な力と言うのが、どこにあったのだろうかと。
金光様のあの普通で言えば、やっぱ人間の姿形をしてお出でられる金光様の内容に、どう言う様なものが、おありになったから、あぁも皆んなに生き生きしたものをお与えになる事が出来たんだろうかと。生き生きしたものと言うのはです。人に与えて行けれるものなんです。私はここで本当に有難いと言う奉仕をさせて頂いておる時などはです。もう本当に、あの障子を開けて入ってきた時にです。
もう途端に皆が有難くなると言われます。あのお願いをさせてもらおう、この事もお伺いしようと思うて来たけれども、先生何にもお伺いする事は無くなった、お願いする事はなくなったと言うほどに、皆さんがおかげを受けられます。不思議な事じゃないですか。してみるとです、私はこの油断をしないと言う事。勝って兜の緒を締めよと。そういう私はそのお諺を、そのまま信心の上に持ってくると言う事は、もう大事でございますけれども。ほんならその信心によって、何を私共が頂き続けるかと言う事は。
私共の心の上にです生き生きした心がとこう思うです。そんなら久保山の奥さんではないですけれども、先生生き生きした信心生き生きした信心とは、ほんならどういう信心でしょうかと言う事になるのです。椛目で言うならどなたが誰がその生き生きした信心をなさっておられるでしょうか。そういう雰囲気を持っておられるでょうかと、こう言う事なんです。さぁそうなぁ椛目にこれだけ沢山参ってきよるけれど、成程良い信心を持っておられる人はあるて。実に素晴らしい信心の素養を持っている人もある。
そらそれこそ夜もなからなければ、朝もないという様に一生懸命、椛目に打ち向こうてくる人もある。信心が高尚な人もある。けれども生き生きした信心と言うと、それは信心はそれはそのまだ幼稚であっても、若くてもこれは別なんだと。と言うてまぁそうですなぁ椛目では、誰々さんぐらいじゃないでしょうかと、私が申しましたら。はぁ先生確かにそうでございますねぇとこう言われる。その誰々さんと一緒におって、色々お話はしておりましても、何気なしに言われる事がですね。
こちらの心を揺さぶる様な事がある。はぁほんなこつともう先生が言われる事に、こう共鳴せにゃおれん様な事を言われる。考えて言いなさるわけじゃない。いつも良いものがあるのです、その人の内容に生き生きしたものが。と言うてほんなら何時もそうかと言う訳じゃない。本人の信心を、私が見てから思いますのに。こらまぁ信心が堕落しておる事もありゃ、信心が緩んでおる事もあるけれどもです。そういう時に何時もはっと、神様をお気付けお気付けとして、受け止めれる何者かを持っておると。
はっとその自分ですぐ気付かせてもらう。子供に言うたけれど、子供が言うことを聞かぬ。子供の上にいかんどころか反対になったと言った様な時には、もう直ぐその生き生きした神様を取り逃しておると言う事です。ですから生き生きした信心と言うのはです。いつも絶えず私共の心に、神様を身近に感じておる事だと言う事になるのです。そういう神様を、私共が頂くまではです。
私は信心の稽古を精進を、その事を言うならば、今日はこの御理解をもってと、その事を心の中に、繰り返し繰り返しさせて頂く精進と言う様なものが必要であって、それが自分のものになった時にはです。神様を身近に感じさせて貰えれるおかげが頂かれる。そこに、油断があってはならんのであり、又は勝って兜の緒を締めよなんである。おかげを頂いたと。今日の御大祭は大変な御大祭であったと。やれやれと言うところにです。私はもうそこに隙間が出来ておる。
私はもう次の大祭の事を考えておるんだと。そこに私は隙間を作らんで済むおかげ。そんなら、隙を作らん油断をしないと言う事はです。大変至難な事か難しい事かというとです。それが自分のものになってしまうんです、までの稽古が出来たらです、後は見やすいことだと。例えばほんなら、昨夜で言うならば、昨夜私はもう十時半ぐらいに、ここを下った。下ってすぐ丹前と着替えさせてもらって、羽織袴を取ってコタツの中に入りながら、久富さんから足を揉んでいただいた。
成程やれやれでもありゃ心が本当にこう安らぐ、やれやれと言う気がする。けれども久富さんが、何時はぁ今先生がいらっしゃるけんと言うて、打ち込んで来なさったっちゃ、私はぴしゃっと、それを受け止めれるものを、何時も持っておると言う事。それはいつも持っておると分かりませんよ。昨日そうやったけど、今日はどうか分からんけれども、そういうものを自分の心の底に、何時も感じておると言う事です。
ですからあんた達が、私に隙があると思う時には、私に打ち込んできなさいと言う事が言えれるとこう思う。ですからさぁその油断をしないと言う事は、コタツにも入っちゃならん、足も揉んで貰うちゃならんと言う事ではないと言う事。いつも生き生きした神様を、自分の心のなかに頂いておると言う事。頂いておくと言う事。有難いなぁ今日の御理解はあそこだ。そういう時にはもうああたの心の中に、神様が身近にござる時なのですから、それを頂き続けさせて頂く、持ち続けさせて頂く。
今日はこの御理解をもって、本気で様々な御用に当たらせて頂こうぞという、それをです、心の中に持ち続けて行く所の、私は精進がどうでも必要だとこう思うです。もう先生辺りの事は、ずっとあぁして神様の前に座ってござりゃ、それも出来ようばってん。自分達はもう本当に、商売をさせて貰うたり、いわば我情我欲の世界さんぽんと一遍に入っていくのだから、仕方がないといやもうそれまで。
そういう我情我欲の世界にです。いわばわが身は神徳の中に生かされてある喜びをです、持って入っていけれる所に、信心者の値打ちがあると私は思うのです。いわばそういう我情我欲の人でもです。あの人のふっと言われる事、何げなしに言われる事がです。何とはなしにそれがです、一服の清涼剤にもなるようなものをです。私は信心させて頂く者は、持ち合わせておかなければいけないと思う。
ほんに成程先生がそう仰らです。本当にやっぱり椛目では、あの人ぐらいな者でしょうと、あの人のそばにおると確かにそれを感じます。何げなしに言うておられるその事がです。本当に肩のここに響いてくると言うようなものを一つ、持ち続けたいという風に思います。信心にも何事にも同じ事でございましょうけれども、矢張り油断が禁物、油断は大敵なのである。折角有難くならせて頂いたのがです。がらがらっと一遍に崩れてしまうような事であっては惜しい。
そこで勝って兜の緒を締めよという様にです。心を愈々引き締めさせてもらって、さぁさぁこれからと言った様なものが必要じゃないでしょうか。御祈念を終わった御理解を頂き終わった。やれやれともう、ストーブのそばに寄った途端にです。今まで有難かったのが消える様な事では私はいけない。さぁ今日はこれで行くぞというものをですね。いわゆるその、さぁこの御教えを持って、今日はと言う様な私は信心がですね、なされて行く時に、必ず神様の働きを神様を身近に感じる事実としてのおかげが頂けれる。
そういう日々が繰り返される所にです、何時の間にかそういう信心がです。愈々私のものになると申しましょうか。所謂身に付いて来る信心が身に付いて来ると言うのは、そういうものじゃなかろうかと。どうぞ一つ油断はもう信心特に信心に大禁物。御祈念は済んだ。だから私はもうこの御教えを持って、今日はあそこにも行かんならん、こういう御用もせんならんがこれを持って、その今日一日の私の心の支えとさせて頂こうと言う様な精進、心掛けが必要じゃなかろうかと思います。心掛けですね。
どうぞ。